どうも、管理人のちゃーんです。
「地震大国日本」
私たち日本人が住んでいるのはこのような呼び方をされることがありますね。
というより「災害大国日本」の方がしっくりくるような気もしますが…
さて、管理人は「東日本大震災」を経験しました。
ものすごい揺れを実際に体験しました。本気で「死ぬかもしれない」と思いました。
そんな経験をした管理人の被災してからの動きを書いておきます。
※10年前なので若干記憶があいまいです。しかし書いておかなければ自分の中の記憶が風化してしまうので、記録を残しておきます。
※管理人は津波を経験したわけではありません。
とんでもない揺れでした
管理人は「東日本大震災」発生当時、管理人は高校3年生でした。(歳がばれますね)笑
自動車学校での座学中にその時は訪れました。
「あ~ぁ…教官の話は長いなぁ…」と、うつむいてあくびをかみ殺していた時、あの嫌な音が教室中に鳴り響きました。
そう、「緊急地震速報」です。
とても不快な音ですので、眠気が吹き飛んでしまいました。
というか、最初は何の音だったのかわからなかったです。
知識としてはあったけれど、実際に「緊急地震速報」の音を聞く経験って少なかったですからね。
そんな管理人が周囲の様子を見まわそうとしていると、ものすごい揺れが襲ってきました。
管理人はあまりの激しい揺れに思考能力が奪われ、「えっ、えっΣ(・□・;)」言葉なんて出て来ません。
机にしがみついていました。
「あ、今は絶対に立ち上がれない」と、確信するような揺れだったのを覚えています。
教官も初めは状況を理解するまでに間がありました。それはそうでしょう…あのような揺れで咄嗟に判断できる人は限られています。
「はっ」と我に返った教官の指示に従い、机の下に隠れました。
本当に怖かったです。
一緒に座学を受けていた友人は真っ青な顔で
「ちゃーん、死にたくないよ~」と震えていたのを思い出します。
管理人はその様子を見て、落ち着きを取り戻せました。
自分がしっかりしなければ!と思ったからです(笑)
人間っていうのは非常事態の時、誰かに頼られると、落ち着きを取り戻せるんだなぁ…と、高校生の管理人は悟っていました(笑)
冗談はさておき
とてもとても長い時間揺れが続いており、何分揺れていたのかは覚えていません。
しかし、本当に怖かったです。
そして揺れがおさまり、外に出て思いました。「今日は特別に寒い日だな」と。
雪がちらついており、寒さに震えたことを思い出します。
管理人は自分の身の安全を確保した後にすぐに家族に電話をし、無事を確認しました。
家族に現在地を訪ねると「今、気仙沼にいる、目の前にサンドウィッチマンがいるんだよ!」と言われました。
今だったら「はぁ!そんな危ないところにいないで、早く逃げろ!」と、なっていますが
正直、当時はあまり驚かなかったです。
その当時は大きな津波が来ているという想像なんて出来ません。
実際、沿岸部から来ていた生徒を教習所の先生たちが家に帰そうとしていましたから。
その後、家族は無事に帰路につくことできたようで、一安心した記憶があります。
教習所の沿岸部への送迎も、途中で引き換えして来たようでした。
一歩間違えれば、危うく天涯孤独の身になるところでした。
本当にギリギリでしたからね。家族は帰る途中で「津波を見た」と言っていましたから。
避難の準備
私はやっとの思いで家に帰ることができました。徒歩で帰っていたのですが、近所のおばちゃんが通りかかった際に車に乗せてくれました。とても感謝しています。
家に着いてから、状況の把握につとめました。
灯油のタンクは倒れているし、家の中は荷物がぐちゃぐちゃに散乱していました。
皿はかなりの枚数が割れていました。家の壁や、柱にもヒビが入っていました。
当時卵をとるために飼っていたニワトリは逃げ出すし…
もう本当に大惨事でした。
ニワトリって、でかいなぁ…なんてどうでもいいこと考えていましたよ(笑)
家の現状を把握して思いました。「家の中で寝るのは怖いし、嫌だ」
なのでまずは、布団を車に積んだりして、避難の準備を始めました。
この当時は「避難袋」を準備しておらずとても大変な目にあいました。
最近だと手ごろな値段で「避難袋」が売っているようですね。
当事者にならないと必要性が分からないものですが、備えあれば患いなし、です。
さて無事に布団を車に積みましたが、管理人は免許がなかったので、家族が帰って来るまで待機していました。
この時点では、電話が通じなくなっていました。すでに情報難民でした。
とても心細かったです。
無事に家族と合流
ようやく家族が帰って来た時は「ほっとした」ことを覚えています。
薄暗くなってきているし、外は雪が降っているしで不安に押しつぶされそうでした。
まずお互いに怪我がないことを確認し、一安心しました。
ここから、避難行動の開始です。
管理人が住んでいる地域では「市役所」が避難所でしたので、その夜は避難所である「市役所」に移動することにしました。
薄暗くなっている道路を車で移動したのですが、見たこともないような亀裂が入っていました。
橋は人の腰の高さ位の段差が出来ているところもありました。
無事に避難所に着くことできました。既に避難所にはたくさんの人がいて、各々の場所を確保していました。停電していたので、暗かったです。
自分たちの場所の確保をした時は放心状態だったと思います。
夜の過ごし方
停電が続く中、夜になりました。
ありがたいことに避難所で食事を出してもらえました。
食事の内容はおにぎりでした。水分が多めのおにぎりでした。
おそらく、量を増やすためだったのだと思います。
地震発生から、何も食べていなかったので、食べ物を食べれたときは少しだけ安心しました。
食事も済ませて、寝ようと思ったのですが、鳴るんですよ。緊急地震速報が。それも、フェイントなんですよ…
鳴るたびに緊張が走るのですが、ほとんど揺れない。
安心するようなしないような…どこか遠くで揺れているんじゃないか?
誰かが被災しているんじゃないか?など悪い想像ばかりしてしまいました。
家は潰れていないだろうか…連絡のとれない姉は無事なのだろうか…
不安で不安で恐ろしい夜でした。
ウトウトしながらラジオを聞いていれば、どこどこの海岸に100人くらいの人が倒れているなど、災害の状況を伝えていまいた。
正直に言いますと、状況が理解できませんでした。停電していて、テレビが見れないし、現実味がなかったんでしょうね。
あのような大惨事になっていたことなどつゆ知らず、自分たちの明日を心配することの方に気をとられていました。
一晩中「緊急地震速報」の音が鳴っていましたが、一応眠れたような記憶はうっすらあります。
長い、長い夜でした。
終わります。
ここからは、内陸部の被災者としての日常が始まるのですが、それはまた別の機会に。
東日本大震災から10年が経過し、記憶の風化が叫ばれています。
私は内陸に住んでいたため、津波の被害は免れました。
私たち内陸部の人がした苦労は、沿岸部の方の苦労に比べれば大したことはないのかもしれません。
しかし、内陸には内陸の被災者がいて、このような苦労、行動をしていたことを記録に残しておきたくて書きました。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
当サイトの看板犬のもっちの話も、よろしければ読んで行ってください。心が和みます。
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